九工大新聞コラム 廣瀬英雄 
2005年度2号 6/27/2005 

ほんものにふれる

 音楽や絵画について、私が感じたような経験は皆さんもお持ちかもしれない。10代のとき大原美術館に行きたいと思ってわざわざそのために九州の片田舎から出かけた。油絵の力強さと色彩の自由な面に魅力を感じていた頃である。睡蓮を見たいとは思っていたが、そのとき印象に残った絵はそれではなくて、ビュッフェ、クレー、マティス、そしてピカソだった。ピカソにはとても親近感を覚え、ビュッフェのアナベルの像は今でも頭に焼き付いている。遠いと感じていた近代絵画がその場で身近になった。あちこちの展覧会に行って自分の世界を振り返ることがある。音楽もそう。同じ頃、ストラビンスキー、バルトーク、マーラーに夢中だった。演奏会は一番後ろ。あるとき北九州にアルゲリッチが来た。いくつか演奏したが、バルトークは出色。沸騰する情熱。帰りの電車で興奮したことを今でも忘れない。サンフランシスコでは、クラシックを聴いて、あーここでは悩める音楽は育たないと感じた。それもそこに行って空気を吸わなければ感じない。最近、スラックキーギターが好きで、ケオラビーマーを知る。他の演奏者と一線を画し、聞いているとハワイの雄大な海の中に抱かれている感覚を持つ。どのような人なのだろう会ってみたい、と思っていたら無くなる運命にある福岡ブルーノートに来るというので聞きに行った。繊細で、優しくて、それでいて人懐っこい人の気がして、聞こえる音楽の哲学に似つかわしくないことも感じた。
 さて、大学は、社会に出るための高等訓練所のようなもので、いろんなものの基本とか原型とか典型例とか出会えるように仕組まれている。教員は、明日を担う若い人に最前線で起こっていることの本質を分かりやすく教え、また協同作業をとおして形を作るプロセスや喜びを彼らと共有している。ひな形から学ぶ。学ぶ材料はその道の本当のトップとは限らない。いわば、間接的に知ることになっている。そして、学生はよく「今学んでいることが実社会でどのように使われているのか、また将来どう役に立つのか知りたい」と言う。その気持ちはよく分かる。そんなとき、直接体験したら、と思う。ちょうど、生の芸術に接したときに似た感覚を味わうために。
 先日、学生が国際会議で発表してくれた。苦しい作業が待っていることは分かっている。かなりの努力をしてもなかなか追いつかないだろう。超えなければならないハードルはいくつもある。プレゼンテーション材料を作る。ここで、何と準備の甘かったことを知ることになる。今までの実験のほころびも見えてくるし、同時に必要なことと不要なことが区別できるようになる。実際にプレゼンテーションを行っている自分、質問が浴びせられる自分を想像する。相手に分かってもらうことがいかに大変な作業であるかが、このとき分かり始める。本番に立つ。その道に詳しい先頭を走っている人から思ってもみない質問を受けたり、終わって「今日のは良かった」とか声をかけられる。同時に、どうすれば良かったかが一瞬にして分かる。曖昧だった世界が明快になり、階段を一段登る。そういう経験をしてくれたのではないかと私は感じている。
 私も同じである。毎週学生にプレゼンテーションをやらなければならない。学生に会得してもらわなければ時間を使っている意味がない。そうして、昨年の自分と違った講義を展開しなければ生きている意味がないとさえ思う。それには、学生からどう受け取られているか、どこがどう分からないのか、学生から正直なところを聞かせてもらうしかない。
 自分が目指そうと思ったことがあれば、核心に直接ふれるといい。どの方法よりも早いから。そして正しく認識できるから。