九工大新聞コラム 廣瀬英雄 
2003年度4号 1/23/2004 

和をもって尊しとなす

 聖徳太子の「十七条憲法」の第一条に「和をもって尊しとなす」の条項がある。これを社是としている企業や座右の銘にしている人も多いと思うので今更の感があると訝る方々もおられることと思う。実は、これは私が入社したてのときの部署の部長の座右の銘であった。私は今までこの言葉が大嫌いであった。まわりと迎合すれば責任を問われないような情けない言葉に聞こえ、当時はあまり叫ばれなかった「個の伸長」を主張していた私にはもどかしいものであった。しかし最近身のまわりに起こっていることから、この言葉の意味を考えている。
 これは、昨年ベストセラーになった「バカの壁」と関連する部分があると考えている。通じ合うことを望みながら、昨今皆コミュニケーションに苦労しているということの現れがベストセラー現象であるらしい。そう言えば、企業が求めている期待される人材像の姿に「コミュニケーション能力」というのがあった。
 コミュニケーションが成立するのは、自分の経験のバックグラウンドと相手のそれとに共通点がある場合である。これが無い状態でお互い言いっぱなしではエネルギーの損失になる。あるいは争いになる。だから、これが足りないとき、まず相手を理解しようと努めなければならない。つまり、真剣に「相手の立場と身になる」ことである。「思いやり」に満ちた討論が始まれば、お互いの理解は普通進む。個と個のぶつかり合いで白熱した後、お互いの理解は一層深まり、あるいは新しい境地が見えてくることだって大いにある。だから、こんないい興奮状態のとき、「和をもって尊しとなす」となれあいになって、どんよりともたれあうのはいけないのである。それが、入社当時に考えていた否定的な考え方であった。
 しかし、「バカの壁」[1]にもあるように、いくら説明しても分かってもらえない場合がある。「話せば分かる」が効かない世界がある。哲学というか、宗教というか、何かしら信念のようなものに頑としてすがっている場合、あるいは全く関心がない場合には、「聞く耳を持たない」ために相手に響かない。このスタック状態を理解せず、自己を主張し続けた結果は、「今時の若い者はノ」に始まり、挙げ句は戦争にまで発展する。こんなときに「和をもって尊しとなす」が生きてくる。無益と思われる口論や闘争に神経とエネルギーを費やしてお互いの溝を深めるよりは、一歩も二歩も引いてとにかくまず平和を目指す。遅々として進展はないであろう。しかし、破壊よりはまだましということである。この精神は、理解を求めることではなく包容に近い。
 身近なところでは友人関係や組織の中の部局間の対立、世界に目を向ければ果てはイラク問題など神経をすり減らす事柄は多い。「映像の世紀」[2]に見入った人も多いのではないだろうか。一歩引いたり、視点を変えたり、時間をかけたりしながら、相手を包み込まなければ解決できないようなことがある。個と個のぶつかり合いから生まれる融合ではなく、違った個を認める大きなゆるい空気が意味を持つ場合がある。「和をもって尊しとなす」を最近、そのような感覚で肯定している。
参考文献:
[1] 養老 孟司 (著)、「バカの壁」、新潮新書 (2003/04/10) 、新潮社
[2]「NHKスペシャル映像の世紀」第5集 世界は地獄を見た:http://www.mujicajapan.co.jp/nhkdvdeizouindex.htm